素晴らしき哉、僕のセブ島ライフ! ~後編~

前編のあらすじ
無味乾燥とした都会でのサラリーマン生活にいささか退屈さを覚えていた僕は、とあることがきっかけでセブ島留学を決意する。留学期間中に大きな天災に二度見舞われたが、災害ボランティアでの活動を通してフィリピン人の絆の強さ、たくましく生きる姿に感銘を受ける。英語学校を卒業した後も現地に居残りを決めて、ますますセブの魅力にどっぷり浸かっていく。そして、様々な体験や遊びから学びを得た僕は意気揚々と日本へ帰国したのであった。

好きな国で好きな仕事をできたらどんなに幸せだろうとか、もしや自分の活躍できる場は海外にあるのでは、と考えたことは一度や二度ではなかった。
自分のことを社畜だと認めながらも日々仕事に追われる日々を送っている人はたくさんいるだろうし、事実、僕もその内の一人だった。
留学という形でセブで海外生活を経験し、海外へのあこがれや希望はより一層強まっていったが、帰国後に僕を待ち受けていたのは、かつての忌まわしい記憶を蘇らせる「現実」との葛藤であった。

好きなことがしたいなんて考ていると、いい歳してフラフラしてんじゃないよと耳元で囁かれている気がした。
日本という国は無言の戒律が無数に存在し、レールから脱落した人に対しては非常に冷ややかだと思うのだ。
嫌な事や辛いことがあっても言い出しにくい雰囲気が常にあるし、仮に打ち明ければ、そんなことは当たり前だと諭されるか、弱音を吐くな、根性が足りないのだと喝を入れられることになるかもしれない。
人並みの生活とは言うけれど、自分を押し殺して世間体を守ることに何の意味があるというのか。
そんなことを考えていると、決まって脳裏に浮かんだのはセブで目にした「タンバイ」と呼ばれる男たちだった。
タンバイとはスタンバイの略で仕事ができる準備はできているが仕事にありつけるまでの間スタンバイしている人(=無職の人)ことを指す。
彼らの日常は路上でたむろして立ち話をしたり、路肩でチェスやビリヤード、カードゲームに興じるなど、悠々自適に生活している。
中にはもう何年もタンバイとして暮らしている人もいるようだったが、彼らの表情から焦りや不安といったものは微塵も感じなかった。
彼らが望んでタンバイになったかどうかはさておき、職も金もない身分で本能のままに楽しく暮らす様子には衝撃を受けた。そして、多くのタンバイは女性によって支えているということを知って二度驚いた。
僕も彼らのようになりふり構わずに、己の本能に素直に従う生き方がしたいと思った。

セブでの奮闘記

僕が二度目にセブを訪れたのは前回の帰国から1か月余り経った頃だった。雑念を振り払い今の自分がしたいことにフォーカスした結果であった。
二度目の来訪には理由があって、災害ボランティアのときに出会った友人と計画した事業を実行に移す算段になっていた。僕らは話し合いを重ねた末にオンライン英会話というサービスに目を付けた。
場所に縛られることない自由な業務体系に加えて、英語教育に力を入れるセブの土壌を利用し、潤沢な人材が低コストで調達できることが決め手となった。
すべてがオンラインで完結する英会話レッスンなので、Webに関する知識やノウハウが欠かせない業務だが、何とかなるだろうと安直に考えていたド素人の僕らは、その道のりが想像より遥かに過酷なものになろうとはこの時露程も感じていなかった。
とりあえず手始めにホームページ作りに取り掛かったが、恥ずかしながら当時はサーバーとかドメインとかどのような仕組みでインターネットが成り立っているかすら理解できておらず、案の定、いきなり暗礁に乗り上げてしまった。
この日を境に早朝から深夜にまで及ぶ奮闘の日々がしばらく続いた。ハマっては、丸一日トライして成果なし、みたいなこともしばしばあった。
お金にもならないことによくも労力を費やせるなと思われるかもしれないが時間的、経済的なリミットが刻々と迫ってくる中で、僕らみんな他に考える余地などなかったと思う。
人は窮地に追い込まれれば藁にも縋る思いで一生懸命になれるし、多くのことを学習する。また、少しずつでも着実に形になっていくことに、ささやかではあるが楽しみ喜びを感じることができた。

マイページやポイント制予約システムを実装したホームページ、レッスンで使用するオリジナル教材、英語講師の手配、レッスンを行うためのブースの確保などの準備が整うまでに半年余り(当初の予定では3か月)を費やしたが、ようやく運用にこぎつけることができた。
ここに至るまでも相当苦労したが、本当に苦労したのはここからだった。
課題はシンプルに集客力の欠如、その一言に尽きた。SEOやマーケティングのことなど一切眼中になかった僕らは運用開始から間もなしてく致命的とも言える欠点にようやく気付いた。
SNSや知人の紹介を通じて既に固定会員を抱えていたことが逆に仇となり、戦略を練り直す余裕もなく現状維持が精一杯のまま時間だけが流れていった。

また、現場では別の問題も発生していた。それは講師のマネジメントに関することで、僕らが契約していた講師の約半数以上が突然いなくなってしまったのだ。
心当たりがないわけではなかった。勤務条件を巡って講師とちょっとした衝突があり、現場に少し不穏な空気が流れていたのを察知していたからだ。
この記事の前編でも述べたが、フィリピン人は家族愛とか友人との絆をすごく大切にする国民だ。
一人が不満を口に出せばそれに同調する人が必ずいて、その悪い空気はあっという間に伝染する。
結果的に芋づる式退職という惨事を巻き起こしたのだった。
彼らは会社の面接に友達同士で来たりすることもざらにあるほど友情には熱い。それはわかっていたつもりだったが、その時は恒常的なリソース不足により彼らのケアまで手が回らなかった。
親しすぎても言うことを聞かなくなるのでダメ、厳しすぎても不満を漏らし始めるのでダメ、絶妙な距離感を保つのはかなり難しいことなのだ。

その後ホームページのコンテンツの充実を図ったり、広告を出したり、留学エージェント業にも着手したが、付け焼き刃の知識では残念ながら目に見えるような結果を得ることはできなかった。
経営収支はというと、講師の給与がかろうじて賄える程度と、やればやるほどに赤字が膨らむばかりで、浮上のきっかけはなかなか見いだせない。
そのころから度々僕の頭の中には「撤退」の二文字がよぎるようになったが、僕らは3名で運営する団体だったので自分の一存で決定することはできなかった。

しかし、ほどなくして話し合いが行われ、運営開始から7か月目にして、僕らはサービスを終了させるという決断を下したのだった。
人は成功よりも失敗から学ぶことの方が多い。あの時中途半端にうまくいってたら、味を占めて考えの浅い天狗になっていたかもしれないと思うと、おままごとだと笑われようとも、経営の厳しさを身をもって体験できたことは貴重な財産だったと言えよう。

デザインプラスという会社

僕は約1年3カ月ぶりに日本に帰ってきた。
帰国後の僕は失意に暮れていたわけではないし、前回留学から帰った後のような焦りや不安を感じていたわけでもなかった。
目標はクリアになり、自分が次に向かうべき方向性はしっかりと定まっていた。
実はちょっとしたアテというか、セブ滞在中に、日本に帰ったらこうするというプランをいくつか決めていた。
その中でも最有力候補に挙がっていたのは、”デザインプラス”で仕事をする、ということだった。

僕がデザインプラスという会社を知ったのは、セブでオンライン英会話サービスに従事していたころに遡る。
ホームページの制作の際にWordPressを使用することに決まり、テーマの選定をしていた頃に出会ったのがTCDテーマだった。
僕が初めて見たTCDテーマは「Gorgeous」というテーマだった。第一印象でなんと美しいテーマなのだろうと心を奪われたことを今でも鮮明に覚えている。
当時国産のWordPressテーマと言えば、どれも似たような構成やデザインでいまいちパッとしなかった。よく言えばオーソドックスで使いやすい、悪く言えば華がない、そんな印象だった。
海外産テーマにも負けない突き抜けた高いデザイン性を持ちながらも、日本向けのサイトにもしっかりオプティマイズされたTCDテーマは、国産テーマの中では群を抜いていたと思うし、こんな魅力的な製品を作る会社に僕は心底興味を惹かれていた。

僕はデザインプラスのホームページから採用応募から問い合わせをした。
後日面接の案内をもらった僕は新大阪のオフィスに面接に向かった。
何年かぶりにスーツをビシッと着用し、ガチガチに緊張していたので面接では何を話したかさっぱり覚えていないが、やる気はあるので何とかします、みたいなことを話したと思う。
セブでの事業がうまくいかず撤退を余儀なくされた直後だったので、自信なさげなところを見透かされたら都合が悪いというのも考えていたはずである。

面接が行われた日からちょうど3日後、採用通知を受け取り、僕は晴れてデザインプラスのスタッフの一員となった。
もちろん素直に嬉しかったし、ようやくという安堵の気持ちが沸いていたが、ここからが本番だとすぐに気を引き締めた。
なぜなら僕は知識や技術、経験すべてにおいて未熟で、業務をこなすには相当な努力要することはその時すでに理解していたからである。

デザインプラスは完全リモートワークで自分でシフトスケジュールを組む業務体系が一般的な企業とは大きく異なる。
始業前、終業後に一報は入れるが、業務内容や勤務時間など基本的には自己申告制になっている。
こう言うと、「いやー出勤もしなくていいし自由でいいね。こちとら早朝から満員電車に揺られて…」、などと思われるかもしれないが、実際はそうでない、というか全く逆なのだ。
確かに作業場所やスケジューリングに関しては融通が利くのでその点だけ見れば恵まれた環境と言えるだろう。しかし、タスクや期限は決して待ってはくれないので、先延ばしにすることはできない。
それぞれが役割を果たし、最後まで責任を持って持ち分を全うし、バトンをつなぐ。
あと、リモート勤務なので日常的にメンバー同士顔を合わせて仕事ができない分、チャットでのコミュニケーションが非常に重要になる。
円滑に仕事の受け渡しができるようにお互い配慮を欠かすことはできない。
面と向かって会話するよりももっと高度なコミュニケーション能力が必要だと感じた。
誰も見ていないのをいいことに、時には手を抜きたくなることもあったが、そんなことを続けていたらいつかぼろが出るだろうし、最終的には必ず自分に跳ね返ってくる。
ただ、酷使しすぎると生産性も下がってくるので、抜くとこは抜かないといけないし、ON・OFFのスイッチを柔軟に切り替えて最も生産性が上がるように仕事に臨まなければいけない。
このセルフマネジメントこそ僕が最も苦労した点で、他ではあまり見られない、自主性を重んじるデザインプラス流の働き方である。
僕は大阪の6畳一間の安アパートで半ば缶詰になりながらも、仕事への向き合い方というものをきっちりと学んだ。

入社してはや1年が過ぎようとしていた頃だった。
僕はかつてセブで寝食をともにした友人からとある仕事の依頼を受けた。
彼はその後もセブに残り、オンライン英会話サービスを提供する別の会社に就職していた。
僕が請け負う仕事内容はフィリピン人スタッフのマネジメントなどの人事管理諸々。
話を聞いていると、海外で生活するという希望を胸に、あくせくと働いていた当時の記憶がよみがえってきた。
そこから得るものはたくさんあったが、志半ばで果たせなかった夢という感じでまだ心の片隅には残っていた。
平坦な道のりではないことは容易に察しがついたし、夢は夢で終わらせておいたほうがいいかもしれないとも考えた。
もしこのオファーを受ければデザインプラスでの仕事は辞退しなければいけないだろう。

僕はしばらく葛藤した末に結論を出した。
そして、自分の欲望を満たすためには何かを犠牲にしなくてはならないことは覚悟の上で心境を打ち明けることにした。

すんなりとはいかなかったが、会社としては、仮にセブにいたとしても僕が活躍できる場所はあるのではないかと別案を提示していただいた。
ありがたい話ではあったが本当に僕に務まるのか不安だった。
二兎追うものは一兎をも得ずでどちらも中途半端になるかもしれないし、そして何よりも、自分が手一杯になって穴を開けてしまうようなことがあると、他のスタッフにまで迷惑をかけてしまうだろう。
これほど自分の進路について深く考えたことは後にも先にもその時だけだった。

エピローグ

それから二年が経過した。
僕は今もセブの地にて、デザインプラスで仕事を続けている。
二足のわらじは履けぬとは言うけれど、なんとか自分のペースで日々、日・比双方の仕事に励んでいる。
それもこれも、僕に辛抱強く起用の機会を与えてくれたデザインプラスの存在があってのことで、感謝してもしきれないほどだ。

人生は人それぞれ。人の数だけ異なる生き方があるし、自分の人生を生きられるのは自分以外にはいないのだから、誰にも左右されない自分らしい道を歩みたいと思う。
正直、自分の生き方が正しいかどうかはわからないし、正解とか不正解なんてそもそもない気もする。
遠回りしなければ見えない道もあるし、無駄な事など人生において何一つないと今は思える。
自己を肯定し、あるがままを受け入れ、今日を、イマという瞬間を、力強く生きる。これが僕の当面の拠り所となろう。
数年後にはセブではない他の土地に暮らしているかもしれないし、路上でタンバイをやっているかもしれない。
その時々で自分の気の赴くままに邁進していきたいと思う。

すっかり日も落ち、観光客の姿は一切見えなくなったビーチに一人佇み、満天に広がる星空を見上げながら、そんなことを思う今日この頃である。

あとがき
デザインプラスに入社してはや3年が経ちまして、僕を取り囲む環境は当時とはかなり変わってしまいましたが、心は変わらずあのときのままです。
今後も微力ながらではありますが、デザインプラスに資することができるよう日々研鑽を積んでまいりたいと思います。
最後に、このような振り返りの場を提供していただいたことに感謝し、筆を置かせていただきます。

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