素晴らしき哉、僕のセブ島ライフ! ~前編~

2018年7月某日。僕はフィリピン、セブ島のとあるビーチにいた。セブでも有数のビーチリゾートではあるが、夕暮れに差し掛かり人もまばらになっていた。
そして、波打ち際近くの真っ白な砂浜に深く腰を下ろし、水平線のかなたに沈みゆく美しい夕日を一点に見つめて回想にふけっていた。

初めてこの地に降り立ってからはや6年の歳月が流れようとしていた。

僕とフィリピンの出会い

遡ること6年前、僕は都内でITベンチャーに勤務するごく普通のサラリーマンだった。
新天地を求め住み慣れた地方から上京したはいいものの、満員電車に揺られ家と会社を往復するだけの無味乾燥とした現実に少し退屈さを覚えはじめていた。元々何かを成そうという野心的な目論見はなかったため、「まぁこんなもんか」と思いながら時の流れに身を任せる日々を送っていた。
住まいは都内の人気エリアに位置するシェアハウスで、外国人2人を含む計5人での共同生活だった。ミュージシャンや役者、ダンサーや実業家など、華やかな世界を志す新進気鋭の若者たちに混ざり、僕はどこか引け目を感じずにはいられなかった。
彼らとの会話は、洋画、洋楽、海外旅行などとりわけ海外にまつわるものが多く、各々おすすめのネタを持ち寄っては夜通し話に花を咲かせたものである。

そんなある日、メンバーの一人がフィリピン旅行へ行ってきたというので、その土産話をシェアしてもらった。
彼は数カ月に一回のペースで海外旅行へ行くのでかなり旅慣れており、いわゆる定番の観光地にはまず行かない。そのとき、彼が訪れたのもマニラから100キロほど南、ミンドロ島にあるプエルト・ガレラというところで、白い砂浜が広がる美しいビーチが点在し、驚くほど透明度の高い海と手つかずの大自然を満喫できる、「世界で最も美しい湾」に認定されたこともある隠れ家的なリゾートエリアだ。
彼の話では、ゆっくりと流れる時間の中で、昼はカヌーやカヤック、ダイビングなどのマリンスポーツを楽しんだあと、夜には轟音鳴り響くファイヤーダンスを鑑賞しながら飲めや食えやのお祭り騒ぎで身も心もすっかりチャージされた様子だった。あと、バーで知り合った語学学校の女講師がめちゃくちゃ美人だったというのも非常に印象的だった。

当時の僕はすでに東南アジアの魅力には何度か触れていて、世界中を自由に旅するバックパッカーに憧れを抱いた時期もあった。
その日、いつにも増して興奮気味に話す彼を見て、僕は我を忘れて聞き入っていた。

ディズニーランド、USJ、花火大会、合コン…同世代の男子が好きそうなものすべてに心がときめかない不感症気味(性的な意味でなく)の僕でもこのときは抑えきれない胸の高鳴りを感じていた。
その夜、床についた後、未だ見ぬ東南アジアの片隅に思いを馳せた。
閉塞感に塗れた日常を脱するチャンスはこんなとこに転がってるのかもしれないと思うとワクワクしてきてなかなか眠りにつくことができなかった。
理由はなんでもよかった。
そうだ、語学留学ということにして、日本を離れよう。場所はフィリピンのどこにしよう、首都のマニラは治安が少し心配だな…、リゾートっぽい響きのあるセブ島はどうだろう。
こんな感じで、はやる気持ちをおさえられぬまま、僕はすぐさまセブ島への渡航計画を立て、家とか会社とか、一切のややこしい事情をすべて精算して、翌月には海を渡っていたのだった。

ようこそ麗しき国フィリピンへ!


語学留学という大義名分を得た僕は得意気だった。目的のある日々が送れるのはなんて幸せなことだろうと悦に入っていたのも束の間で、日本で英語の勉強もろくにしてこなかった僕は留学期間の3ヶ月の間、耐え難い苦痛を強いられることになるのであった。

ところで、フィリピンといえば人口一億人超を抱え7000以上の島々(インドネシアに次ぎ島数世界第2位)からなる海洋国家である(意外だが日本も6852島でフィリピンに次ぎ第3位)。
人口ピラミッドを見ると美しいピラミッドを描いており、少子高齢化問題が叫ばれて久しい日本とは真逆の構図である。国民の約9割がキリスト教徒で、その大半はローマ・カトリック協会に属する。その決まりで避妊や中絶が禁じられていることも人口増加の大きな要因である(ちなみに浮気はご法度で離婚もできない)。潤沢な若い労働力が国をけん引し、今後益々の経済発展が見込まれている。

スペイン統治時代の面影を残すセントニーニョ教会は大勢のカトリック教徒の拠り所となっている。

大航海時代、1521年に冒険家マゼランによってセブに持ち込まれたという「マゼラン・クロス」。キリスト教布教の発端となった。

公用語は英語(世界第三位の英語公用国)、タガログ語。現地語を含めると80言語にも及ぶと言われているが正確な数字は定かではない。
主要産業はサービス業となっており、その点はかなり異質である。一般的に国家が経済発展を遂げる順序として農業や林業、水産業といった第一次産業を経て、製造業や建設業などの第二次産業に進み、小売業、サービス業へと変遷していく。フィリピンの場合第二次産業をすっ飛ばしてサービス業が堂々の一位に躍り出ている。これには、GDPの一割にも達するといわれる、海外出稼ぎ労働者の本国への送金も少なからず影響しているであろう。驚くべきことに、人口の一割(1000万人)もの人々が海外を拠点にしているのである。日本で例えるなら地方(フィリピン)から上京(海外)するくらいの感覚か。いや、それよりももっと多いかもしれない。

延床面積は43万平米で2015年のオープン当時、世界で8番目に大きいショッピングモールだった。

少し長くなりそうなので、話を戻そう。3ヶ月という比較的短い留学期間だったが僕はセブで2つの大きな天災を経験した。
一つはフィリピン中部のボホール島を襲ったM7.1の大地震(2013年10月15日)で近隣に位置するセブ島も被害を受けた。某ショッピングモールの門は崩壊し、多くの建物に亀裂が生じていた。学校は休校となり、多くの韓国人留学生が恐怖に耐えきれず翌日には帰国していたのが強く印象に残っている。
もう一つは、フィリピン広域に甚大な被害をもたらした未曾有の超大型台風ヨランダ(2013年11月4日)である。語学学校の窓の外から大きなヤシの木がゴムのようにグィングィンと、しなっているのが見えて、その凄まじさは容易に想像することができた。
地震のときと同様、電気なし、水なし、終わりの知れない暗闇の中でただひたすら耐えるサバイバルのような世界を短期間に2度も味わう羽目になってしまった。
台風が去ってから、ニュースで各地の悲惨な被害状況を見て、改めて台風ヨランダの暴君ぶりを思い知らされた。特に直撃を受けたレイテ島(セブ島のお隣)のタクロバン市では家屋や建築物のほとんどが倒壊し、ライフラインが絶たれる壊滅的なダメージを受けた。結局この台風による死者は2300人以上にのぼり、国民の約1割にあたる950万人に被害が及んだ。

僕自身日本での生活を含めて、後にも先にもこのような事態に陥ったことはなかったし、彼らフィリピン人にとってもそうであったらしく、一時街全体がパニック状態となったが、その後の展開はとてもスピーディなものだった。
起こってしまったことはしょうがない、とすぐに気持ちを切り替え、被災地のために救援物資を買い求める人々の姿を街中で目にした。決して裕福とはいえない経済状況にありながらも、身銭を切って助けようとする姿に心を打たれた。仲間や家族を大切にする絆の強い国民性を垣間見た瞬間だった。
次第に各地で支援活動が活発になり、それに呼応するように僕ら語学学校のメンバーで災害ボランティアチームを結成し、救援物資を被災地へ届ける活動を実施した。
僕らが向かったのはセブ島で最も被害の大きかった最北端に位置するバンタヤンという地域で、件の台風によって、木は根こそぎ倒され、家屋は倒壊し、依然、電気や水道など復旧の見込みはないとのことだった。僕らは日本のNPO法人と連携をとり、現地調達した運搬用の2tトラック3台に物資を詰め込み、北へ、北へと走った。

セブ市内から4時間ほどの道のりだったが、北へ行くにつれて被害の様相が明らかになっていった。現地に到着すると住民は手を振って僕らを乗せたトラックを迎えいれた。トラックの荷台を開けると、住民はきれいに列をつくり、物資を受け取ると満面の笑みで一言 “Salamat”(ありがとう)、と礼を言い、また、子供たちはうれしさを隠し切れない様子で家族のもとへ走り去っていった。
悲惨な状況下であるにもかかわらず、キラキラと目を輝かせていた彼らの表情は未だに心に焼き付いて消えないでいる。その後もいくつかのスポットで救援物資を配って回ったがその姿は皆一様であった。
現地へ赴く前はどこか悲観的な同情ムードが漂っていた車内だったが、帰るころにはそのようなネガティブな感情はすっかり消え去っていた。そう、僕らは彼らがもつ強大な陽エネルギーによって救われたのだ。

本当に価値のあるもの、Priceless

やがて、留学期間も終わりが近づき僕は帰国の準備をしなければならなかった。しかし、どこかスッキリとしない気持ちを抱えていた。

「もっとこの国の事を、人の事を知りたい。」

そう考えた僕は次々に帰国するバッチメイトを見送り、一人、現地に滞在し続けることを決めた。
十分なお金もなく観光ビザの身分ではまともな家を借りることも難しいだろうと思っていたが、懇意にしていただいていたフィリピン人講師の協力もあり、マンスリー契約でドミトリーを借りることができた。
部屋は4人部屋で家賃が月1500ペソ(=日本円で3000円ちょっと)で風呂とトイレは共同。同部屋の人たちはもちろん、棟内の人は僕以外みんなフィリピン人だった。

私生活はというと、お湯の出ないシャワー、頻繁に起こる断水、停電、速度測定ができない程異常に遅いネット回線。いつもベチャベチャのフロアに便座のないトイレ。その傍らに使用方法がわからない小さな桶が一つ。壁を隔てた隣には二日酔いか食あたりかでゲーを吐いている人がいたり、またある時は、シャワールームの扉を閉めるとフロアの角にう○こがこんもりとしてあったり、日本で生活していれば到底ありえないようなシーンを毎日のように目の当たりにした。
むしろ、何も起こらないほうが不自然というくらい日常化していたし、次は何を見せてくれるんだろうと幾ばくかの期待をしていた自分がいたのもまた事実であった。
外に出れば、黒煙を撒き散らすディーゼル車、路上に散乱する生ごみの山、深夜まで爆音を鳴らす即席のディスコ・カラオケ。そんな環境にも関わらず全く動じない彼らを逞しく思ったものだ。

街中のいたるところで見られるジプニー(乗り合いバス的なもの)は庶民の大切な足だ。

環境面において多少のディスアドバンテージはあったものの、気さくなルームメイトやドミトリー内の住人とはすぐに打ち解け、彼らの帰宅を待って夕食に行くこともしばしばであった。英語もままならない当時の僕であったが、日本人と会話するよりもしっかり心と心でコミュニケーションがとれているように感じた。

こんなにも真に人の心に触れたのはいつぶりだろうか。
人が通じ合うのに言葉は最低限でよい、というのは新たな発見だった。

僕は心底彼らのことを好きになった。
国民性、風土、習慣、文化、食べ物、遊びなどすべてにおいて好感を持った。彼らもまた日本について興味を示したのでたくさん話をした。
そして、僕はいつしかこの国の、この島の魅力にすっかり虜になっていたのだった。

語学学校を卒業してから3ヶ月が経った頃、月々の観光ビザを更新すること以外に特にすることもなかった僕だが、人との出会いによって得た、確かな感触を胸に帰国の途についた。
(後編へ続く)

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